幽鬼はやや細身で普段僅かに猫背気味のせいかどこか弱々しい印象だが、
そこはやはり十傑集の一人である。筋力も腕力も実際には人並み以上、
否、一般の人間など比較にもならない。
怪我人――――ヒィッツを抱えて走る程度は問題なかった。

切だった岩山の縁を縫うように幽鬼は走る。
任務は成功しているが、ヒィッツの怪我は深刻だ。
施設の爆発に巻き込まれ、タイミング悪く飛散した金属片で全身を切ったのだ。
自らの真空刃であらゆる物を真っ二つにする能力の持ち主である彼には皮肉な事だが、
切断を得意とする者が切傷に強い訳ではない。
未だ細かい金属片はヒィッツの身体に残っている。
幽鬼は攻撃施設の後始末を部下たちに任せ、
十数キロ先のベースキャンプへと夜の獣道をひた走っているのだった。

岩山のふもとには桜の森が広がっている。
昔はこの桜を目当てに付近の寒村にも人が来ていたそうだが、
道も不便な山奥の為に年々その数は減り、今では誰一人として近づかない場所だ。
だからこそ敵の施設も人に悟られることなくあった訳であるが。
ともあれそんな自然に還った桜は今が満開で、満月に照らされたそれは白い海原のようだ。
だがそんな見事な光景も今の幽鬼には関係がない。
「時間が惜しい。少々手荒だが……」
そう呟くと幽鬼は走る速度を速め、何故か山道をそれて崖に向かう。
目の前に先のない岩肌が現れたが幽鬼は躊躇する事無くその先端を蹴り、月夜の空に躍り出た。
次の瞬間、幽鬼の背に薄緑に輝く翅が大きく広がる。
白銀の月光に照らされたそれはまるで夢の様に美しく、悪夢の様に奇怪だ。
それは幽鬼の体内で飼われている群妖蟲の姿そのままであったが、
これは一時的に蟲を変化させてグライダーのように滑空する為だけの翅で、
幽鬼がその翅を自らの意思で動かすことはできないし、自由に空を飛べるものでもない。
それでも山を下る道を短縮するには十分であった。
「人目がないのは幸いだったな」
少々冷えてきた山の夜風を頬で感じながら幽鬼は呟く。
その時、抱えていたヒィッツが腕の中でひくりと痙攣した。ぎょっとした幽鬼は思わず下を覗き込む。


   軽く反った白い喉元。
   その向こうに見える白い桜の海。
   風に流れる赤い髪。


今この身体を抱える腕をほんの少し下げれば、薄紅の螺旋が刻まれた肢体は白い海に消える。
月光に照らされた姿が吸い込まれるように落下する様はさぞ美しく愛おしい事だろう。
幽鬼は唾を呑んだ。
不意に頭をもたげた狂気がほんの瞬きの間に幽鬼の身体を貫いて行く。
だが――――僅かに緩んだ指先に、幽鬼は再び力を込めた。
(俺は狂ってなどいない)
自身の置かれている立場や環境がまともだとは思っていないが、
刹那の激情に身を委ねるほど思慮は浅くない。
(だからこれは桜のせいだ)
夜目にも鮮やかな、匂い立つような桜は誘う様に夜風にさざめく。
幽鬼は小さく首を振ると、視界から桜を追い出すように夜の森へと目を向けた。